ちくわと私

 

文章を書くのも読むのも苦手なオタクですが、文章を書かなければいけない機会が今後増えそうなので、アウトプットの練習も兼ねてブログ開設に至りました。果たして活かされるかどうかは分かりませんし、この数行ですでに飽き始めていますが継続は力なりということで、やっていきます。ちなみにブログはデコログ世代の人間です。

 

普段はハッピーメディアサポーターとしてテニスの王子様と共に生きていて、アウトプットの媒体として主に利用しているtwitterでもテニスの話が中心になっていますが、ここではテニスとは関係のない話もしていくと思います。むしろテニス以外の話が多くなるかもしれません。

 

とりあえず何か書こうと思いますが、現在これといって特筆することがないため、ブログタイトルの「ちくわになりたい」について少し。

 

高校時代か大学時代か、いつからか正確には覚えていませんが、所謂「死にたい」といった「ありとあらゆる煩わしいことから解放されたい」という意味合いで昔からよく使っています。

なぜちくわなのか、はっきりとした理由はありませんが「美味しいから」というのが理由のひとつだと思います。美味しいものなんて他にも山ほどあるだろうと思いますし、私自身もちくわとカレーならカレーの方が好きですし、ちくわの地位はそれほど高くはないとも思います。ごめんちくわ。

 

それでも「ちくわになりたい」と思うのは、ちくわは美味しくて、かつ無害な存在だからというのが大きな理由なのかと思います。私の周りではちくわが嫌いという人間は少なく、お弁当のおかずにもなり、食卓にも並び、酒の肴にもなる。子供から大人まで広く適応される万能な食材だと思います。万能な食材だけれども、存在感が強いわけでもなく、かといって弱いわけでもなく、ただただ確かにちくわである。それが認められる。それがちくわの良さだと思いますし、そういった存在になりたいという願望があるのかもしれません。

 

とにかく、ちくわはそのまま食べるもよし、焼くもよし、なによりあの穴に何かを詰める。それによりバリエーションが一気に豊富となり、単純にわくわくしてきます。王道では胡瓜、チーズですが、私の一押しは梅干しです。ちくわになって梅干しを詰められ、できれば揚げてもらいたいなと思います。美味しいので。 

 

この話を友人にすると「ちくわとか練られて痛いやん!」との言葉を受けることが多々あります。そこでいつも議論になるのですが、ちくわは一体どの段階でちくわとして自我を持つのか、という点です。これについては結論は出ていませんが「すり身の状態で練られている時点」「練りあがり成形された時点」「焼きあがった時点」「製品として完成した時点」などそれぞれが抱くちくわ観が飛び交い、予想以上に白熱するので皆さんもぜひ考えてみてはいかがでしょうか。

 

こんな感じで脈絡のない、その時書いてみたくなったことを書いていくと思います。この程度の文章で疲労感が尋常ではないので先が思いやられますが、好きな事についてなら書けるのか。どうなのか。乞うご期待。